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店舗内での写真撮影 [グルメ気取りのバカを晒す]

 いつもいつも同じ事ばっかりを書くが,食べ歩き自慢のバカブロガー共が自分のブログ上にどこかの飲食店のメニュー(メニューブックではなく,サーブされた食べ物)の写真をこれ見よがしにアップするのが俺には何とも不愉快だ。
 ブログ云々は別にしても飯を食いにいった先でオーダーした物が出てくると何はさておいてもデジカメなり携帯電話なりを取り出して食い物の写真を撮る奴が珍しくも何ともなくなってきた。端から見るとバカそのものでこういたわけた真似をやる奴は女に多い。特に複数連れ立って来る女は低級な群集心理が働くらしくどこまでも下劣になる。

 一体全体どうしてこんな恥知らずな行為が横行するようになったのかと考えてみるにやはりデジカメの普及だろうと思い至った。もしもフィルムカメラしかなかったら食べ歩き自慢のアホ共は写真など取らずにただ食らっては会計を済ませていただろうと俺は確信している。フィルムの現像代で500円,24枚撮りフィルムをプリントして合計1000円弱の出費になるから一回分の食事代についてしまう。飯を食い終わってからすぐに結果を見る事も出来ないし現像を終えたフィルムからディジタルデータを起こすにはフィルムスキャナも必要だ。そこまでしてでも外食で何を喰ったのかを画像として記録しておきたいなんていうグルメ気取りブロガーなんて一体どれほどいるというのか。恐らくこうしてネット上に氾濫するアホ共のうちの1%にも満たないはずだ。

 俺からの見え方を書いておくと,ああいうバカ共はとどのつまり,何にもない連中なのだ。写真が好きなわけでもないし本当の意味での美食家でもない。ネットという不特定多数の誰かさん達に向かって話題にすべき事が1000円かそこらの食い物の事しかない貧困な精神生活の産物が食べ歩きだの何だのと垂れ流すゴミみたいなブログの山だ。

 俺の仕事上,雑談の最中にこういう話題が出る事はあるがオーナーの意見はおしなべて侮蔑的な感情を含んでいる。
 客を装って来店した同業者が自分の仕事の参考としてなのだろうがこっそり盗み撮りをしていく事例はままある。こそ泥まがいというか恥知らずというか卑劣千万というか,何せおよそ褒められた事ではないが,店舗スタッフにこれと誤解されかねない行為を働いているという自覚は食い物の写真を撮りたがるグルメ気取りのバカ共には耳垢ほどもない。あの阿呆共の頭の中にあるのは自分は客で金を払う立場なのだから店舗内で何をやったっていいんだという何の根拠もなく非常識な優越感だけだ。

 社会通念として,店舗内での写真撮影はご遠慮願います,というのが俺の中にある刷り込みだ。
気のせいかもしれないが魚屋で立ち止まって切り身の写真を撮っている奴とか,靴屋の店内でサンダルの写真を撮っている奴というのは見かけた記憶がないがラーメン屋の店内で湯気にレンズを曇らせながら写真を撮るバカは腐るほど見た。飲食店は店舗だと思っていないのだろうか。だとすれば随分この業界を小馬鹿にした態度だと思うし,そんな奴が垂れ流す食い物の事を題材にしたブログなど俺は読む気がしない。

 席数が50くらいあり,ランチタイムにはこれが2回転強するレストランでかれこれ20年以上頭を張っている知人がいる。彼が言うには,エチケットとして出されたメニューの写真を撮る人はホールのスタッフにこのメニューの写真を撮らせて頂いて良いかと打診するのが筋なのだそうで,全くもってごもっともだと俺は考えている。

いつの間にか美味しんぼの連載が終了 [グルメ気取りのバカを晒す]

 漫画週刊誌などマメに読む趣味はないので真面目に語れた柄でもないのだがとにかくいつの間にか連載は終わっていた。大枠でのストーリーで言えば孫の存在が強面の海原雄山氏のキャラを弱めていく事にしかならないから息子との確執も減っていくだろうし、そのうち三世代そろって含蓄のひけらかしを競い合うだけのサザエさん的なぬるいストーリーしかひねり出せそうにないし、原作者も散々儲けただろうから潮時と言えば潮時だ。良かったねw
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 全く辟易したのはここに出てくる面々の現実感覚のなさだ。こんなお歴々のお眼鏡にかなうほどの料理となるとカツ丼一杯が10万円くらいしても不思議ではない。20年以上にわたる連載の中でほぼ一貫していた主張とは『いいものは高い』というひどく陳腐な経済原理でしかないのには全くもって脱力した。
 ときたま、『金さえかかっていればいいというものではない』というモチーフであるエピソードだってあるにはあったがやれマグロの中落ちだのなんだのと、安いには安いのだろうが今日日、おろした魚の骨から包丁で中落ちをこそげ落とす作業が賃労働としてどのくらいの代価に相当するかについては一切触れない。ひどく面倒臭い作業だぞ、あれは。

 大して語る気もないが、一事が万事こんな調子の20数年であった。今日日本国を跋扈するグルメ気取りの大馬鹿者たちを量産した最大の功労者でもあったな。
 全くこんな馬鹿げた漫画が流行ったせいで、世の中の飲食店のオーナーさんたちはさぞかし頭痛に悩まされた事だろう。飯を食いながらやれうまいのまずいのと講釈を垂れたがる阿呆どもはこの漫画のヒット以後激増した。貴様等、一体幾らの金でそれを食っているんだ、黙って食えよ!と怒鳴りつけてやりたい場面は思い出すと数えきれないくらい多い。

 とある飲食店で、ある日ある時出し抜けに海原雄山氏が現れてしかめつらしい顔つきで何かを食っている場面を想像すると俺は妙に好戦的な気分になる。
 漫画の上では海原氏は一口食ったその直後、鬼のような形相で席を蹴って立ち上がり、カウンターを両手でバン!と叩いてオーナーを怒鳴り上げるのがお約束のパターンだった。
 そんな店に入った海原がバカだっただけの話じゃねえかw

 出されたものがまずかったのなら次からその店に行かなければいいだけの事を、殊更どら声を張り上げるこのオヤジは考えるまでもなくふざけた野郎だ。
 飲食店を営んでいるからといってうまい料理を作るべく精魂込めなければならない社会的責任などあるわけがない。世の中には何か他に熱中している事があって、熱中ごとの資金を捻出するため片手間に手抜きメニューだの安価な既製品だのを出して営まれている飲食店など珍しくも何ともないし、自営業者が自分の責任範疇でやっているのだから他人がとやかく文句をたれる筋合いのものでもない。仮に俺がこの漫画で海原に怒鳴りつけられる飲食店のオーナーだったとしたら「一見のくせに何を抜かすか!大きなお世話だこのくそオヤジが!人を怒鳴りつけたいのだったら自分の雇っている料理人だけにしやがれ!」とかなんとか怒鳴り返しているだろう。

 何かを生業としている者はおしなべて誠心誠意精進しなければならないなどという決まりはどこにもない。ろくでもない仕事ばかりしている奴はわざわざ怒鳴りつけなくてもそのうちまわりに愛想を尽かされてフェードアウトしていくのが世の中なのだから海原のようなオヤジは全くお節介な事この上ない。
グルメ気取りのバカをこの漫画は量産したがさすがに海原的行動をまねする奴は生み出す事がなかったのは不幸中の幸いだ。常識のある市井人だったらさすがにあれはやらないわなw
 ジャンクフードが大好きで一体何が悪いかとかなんとか突っ込みどころはまだまだあるがいちいち取り上げていくときりがないので本日はここでやめ。

回転寿し評論家のバカ発言 [グルメ気取りのバカを晒す]

 別段、義務感でやっているブログではないので更新も気分次第。

 のんべんだらりと朝、テレビを眺めているとNHKで朝放送されている「生活ホットモーニング」(だったかな?)という番組があってクイズ形式ですしのことを放送していた。
 番組中、やり過ごせない話が出てきたので備忘録的に今回は書き留めておく。

 名前は忘れてしまったが、番組中に「回転寿し評論家」なる生業の人物が登場してきた。世の中は広いというか、俺は今の今迄そんな職業が地球上にあることを知らずにいた。何でもこれ迄に二千件の回転寿しを食べ歩いてきたのだそうだ。
 示されているのは件数であって利用した回数ではないところがすごい。一件一回ずつとして、一般に回転寿しは朝に営業していることはないので昼食と夕食、一日2食を回転寿しで済ませたとしてぶっ通しで毎日毎日通って3年弱を要する。すごい話だ。よほど回転寿しが好きなのだろう。
 まあ、自分の金で食っているのなら勝手にやれば良いのであってそのこと自体に文句を言うつもりはない。

 番組中、この、「回転寿し評論家』はこんな注文の仕方を公言していた。つまり、回転寿しの、というよりも寿司屋全般のお約束として、お好みですしを握る場合は一種類のタネで握りは二個である。(何故二個なのかについては追々調べてみたい)
 そこでこの『回転寿し評論家』はいろんな種類のタネを食べるために一つの皿に異なる種類のタネを一個ずつ握って乗せてくれるように注文するのはアリなのだと秘伝開陳の如く得意そうに語ってみせたのだった。番組スタッフは「本当にそんなことが出来るんですか!?」と驚いたが「出来ますよ」と自信満々に言い切ってみせたのだった。

 こういうバカ話を真に受けてはいけない。こういう振る舞いを回転寿しで行うべきではない。
何となれば、回転寿しの清算は皿の種類と枚数を積算して行われるからであって値段の異なるタネが一個ずつ一枚の皿に載っていたのでは会計が混乱して業務に問題が出るからである。
 こういう注文の仕方は、以前からあるような営業形態の、いわゆるたち寿司で、それも何度も何度も足繁く通ってすっかりお馴染みさんになってカウンターに指定席が貰えるくらいになってからやるべきことであってファミレスの亜流に分類すべき回転寿しで行うことではない。番組の最後でスタッフはこの注文の仕方についてばつの悪そうな面持ちで「どこの回転寿しでも受け入れてもらえるわけではない」と伝えていた。もしかしたらたまたま番組を見ていたどこかのオーナーが「迷惑な注文の仕方を公共放送で世間に広めてくれるな」といった旨の苦情をNHKに電話でもしたのかもしれない。

 この一点だけを持ってしても自称「回転寿し評論家」が常識をわきまえない阿呆であることは歴然なのだが阿呆は皿に阿呆な発言を重ねる。
 席について最初のオーダーは「今日のおすすめを握ってくれ」とカウンターの中の職人に告げるのが上手な回転寿しの利用法なのだそうだ。バカもここに極まるというか。

 俺は繰り返し何度も書くが、うまいまずいなどというのは所詮主観の問題であって唯一絶対の基準などないし議論したからといって結論が出ることもない。加えて飲食店は当たり前だが商業施設なのであってうまいものを世に広めるための啓蒙活動ではない。ましてや回転寿しという業態は頑固一徹の職人オーナーが自分の一存で切り回しているわけでもない。カウンターの中の職人は厚生年金も社会保険も天引きされているれっきとした社員なのである。「今日のおすすめ」なんて客に注文されれば握るタネはなるべく早く使い切ってしまいたい食材か、あるいは一番単価の高いタネに決まっているではないか。

 こんな程度の道理もわかっていない阿呆が評論家を気取るのだから笑わせる。銀座辺りの接待中心の寿司屋でこいつは同じことが出来るのか?単価の低い回転寿しで食通気取りを披露してそれで何か職人を感服させたつもりにでもなっているのだとしたら救いようがない。番茶で脳みそを洗って出直してくるべきだなw

 

いわゆる「スイーツ」の雑感 [グルメ気取りのバカを晒す]

 俺の住む町で配られる情報誌ではこのごろ飲食店や製菓店でのシュークリームとかプリンの記事が多い。セットメニューが売り物の飲食店では食後のデザートとしてこういったものが供されるケースは増えてきたようだ。
 飯を食って終わりの一膳飯屋では売り上げにも限度がある、客単価を上げる方策としてこれは確かに有効性がある。女性が多く引っかかるようだ。作法的にはいたって当然なのだが俺の住む町の無知な貧乏人どもは食後にデザートをいただく程度の習慣さえもが一般化していなかったことになる。

 まあいい、無知は恥ではない。アホなのは情報誌の編集者たちであってたかがシュークリームやらプリン程度の食い物にああでもないこうでもないと連日グダグダ虚しい講釈を垂れ流す。

 俺が外で飯を食っていて笑えたのは昨年、どこぞのラーメン屋での出来事で、ちょっと小金のありそうなどっかのおばさんが(一体全体何が悲しくて小金持がラーメン屋なのかという疑問はさておきだが)丼の上に浮かんだチャーシュー(と、一応呼ばれている肉片)を食ってコラーゲンたっぷりでおいしいとかなんとか抜かした瞬間で、これには腹筋が肉離れを起こしそうなくらい笑いを堪えるのに苦労した。

 元来俺の住む土地は貧乏なので、味覚の洗練された人など頭数は知れている。多くのバカを相手に今日も情報誌やローカルメディアはシュークリームやプリンについて真面目腐った一方でトンチンカンなクソ情報を垂れ流し続けるのだろう。バカバカしい空気だ。

 ここでひとつ、記憶のひけらかしをしておこうと俺は思う。飲食店でシュークリームやプリンを内製するようになったのがそんなに珍しいか?実のところあれらは洋食系統の調理師が一番最初に覚えるデザートなんだがなw
 彼らはずっと以前からそういうものを作ることは出来たのだよ。貧乏人にはデザートの習慣などないだろうからきっと売れないだろうという諦めで今迄メニューに載せていなかっただけの話だ。きっと最近は腹の中で「何を今更大騒ぎしているんだ、こいつら」とせせら笑っているのは明白である。

船場吉兆の廃業に思うこと [グルメ気取りのバカを晒す]

 料亭の船場吉兆が廃業したそうだ。勿論俺のような貧乏人には縁がないのでこのテキストは単なる野次馬気分で書く。

前回、賞味期限の偽装で叩かれてもまだ懲りなかったと見える。一度ならず二度までもというわけだがああいうことは一度目が発覚した時点で内部的にはもうガタガタの状態だなのであって、まがりなりにも営業が再開できたことは一種のミラクルと考えるべきだろう。ま、一度しく自他人たちがリスタートするにあたって応援したくなる気分はわかるがちょっと人が良すぎる。ああいう連中はほとぼりが冷めればまた同じことを繰り返すものだ。

 「囁きババア」と呼ばれていた社長が今回、記者会見の席で記者連中から言われた「食べ残しの料理」を「手を付けていない料理」と必死になって言い直していたのには笑えた。五十歩百歩とはこのことだ。およそ全て、料理というのは器に盛りつけられた直後から値は下がり続けていくものであって上がることもないし横ばいもない。
 しかし一回盛りつけられたものを手が着いていないからといって使い回すとはまた剛胆な。まるで葬式の花輪みたいではないか。ここで大事なことが一つある。ハンバーガーショップやラーメン屋で出された商品をまるっきり手を付けずに帰ることはあり得ないが、高級料亭という場所はそういうことがままある点に注目すべきなのだ。

 単価の高い店というのは必ずしも豪勢な食事を食べきれないほどどっさり並べてくれるということを意味しない。俺の住んでいる土地などはおよそ料亭などとは縁のない貧乏人どもばかりなので食べ残すことを勿体ないなどとトンチンカンな意見を言うたわけが結構多い。
 「高級な」料亭であったりレストランであったりに対するチャージというのは食い物に対する代価だけではないことを貧乏人どもは知っておいて良い。ある一線を超えた単価の場合はむしろ料理そのものよりも大事な目的がある。料亭の座敷とかレストランのプライベートルームはお偉いさん達の密談の場として機能している、それが本来的な目的である場所なのだ。そこでなされた脂っこい会話は外部に漏れることがない。高額な料金は言ってみれば口止め料であり、セキュリティに対する代価なのである。食事の内容などはっきり言って2の次だ。そして吉兆という店は、まさに密談場所としての利用のされ方が多い店である。

 「囁きばあちゃん」はもしかしたら内心、『どうせ客はいつも料理に手なんか付けてないんだよ!何を正義感ぶって偉そうに人を難詰しているんだよこのど素人どもが!』くらいのことを考えていたかもしれんな。

 あと、断片的に幾つか。
1;もしかしたら洋食や中華関連のコックさん達はこの件を複雑な気分で受け止めているのではないかと思う。特に中華。中華のメニューは殆どが火を完全に通し、食材の表面を薄い油の膜が覆うようにしてできあがるので冷めてくると食材内部の水分が外にしみ出してきて見た目が大分変わってしまう。つまり、手が着いていないからといって使い回しなど全く出来ないものばかりだからだ。悪知恵の働かせようがない。

2;俺はこの稼業に就いてから大体25年位経つが真実、一回出した料理の使い回しなどやっている店は未だ一件も見たことはない。吉兆などという大看板がこの荒技を繰り出してきたことには驚くと同時にこれは吉兆だからこそ出来た力業だとも思うのだ。なぜなら例えば、一人3千円位で宴会をやるような和食店での客はとにかく食い意地の張った貧乏人ばかりだからそれこそ刺身のつまの最後の一本まで食い尽くされてしまい使い回しできるような食材は、いや、食材そのものが皿の上に残らないからだ。

「食文化」に憧れる就職希望者達のこと [グルメ気取りのバカを晒す]

 先週末、クライアントである某メーカーの所長様と半日同行して晩飯を共にする機会があった。

 大体いつもこういう場面はガス抜きというかお互いのぼやきを披露し合うのが常だ。外食の市場は着々と砂漠化が進行しつつある。肥沃なる未開の大地はどこにもない。食品設備で大儲けを狙うならもう国内ではダメだろうと思っている。
 クライアントに最近入社した新人社員は今日日珍しくかなり気骨のある人物だ。他人事ながら長く勤めていて欲しいと思う。某メーカーはこの業界の中では就労環境や給与体系のしっかりした会社なので希望が持てる。

 俺も以前は新卒、中途を含めて人を採用する側の人間だった事がある。眼力はなかったのでろくな人材を発掘できず、育成能力もなかったのでこの業界に残っている部下は今は一人もいない。
 だから開業するに当たっては一人で完結する業務の形態を考えていた。と言うよりもこんな稼業ではとても社員を雇えるだけの儲けが出てこないというのが真相なのだが。

 毎度書くとおりこの業界は人材の定着率が悪い。会社員だった頃、毎年4月の社内報にはびっくりするくらい多くの新卒者の自己紹介記事が掲載されていた。おそらく毎年40人くらいはいたと思う。バブルの弾けた「失われた10年」の時期にである。俺は中年になってからの中途採用だったので、初めのうちは随分剛毅な会社だと感心したりもしたが、数年してから離職率が高いのであらかじめ大量採用するのではないかと確信した。

 業務用厨房機材の会社というのは世間一般の認知度はかなり低い。低いのだがそれでも一定量の新卒者が毎年入ってくる。入っては抜けを繰り返し、十年経っても社員数は大して変化していない例はザラにある。目の粗いザルで浜辺の砂をすくうような営為の繰り返しを飽くことなく繰り返すのがこの業界の特徴と言っていい。

 某メーカーの所長様が語るところによると、入社の同機を「食文化に携わる仕事をしたいと思った」などと殊勝な志の若い衆が稀にいるらしい。ご愁傷様です。この業界には食はおろか文化そのものが皆無であることをこの若い衆はわかっていない。俺は断言するが、こういう高邁な理想を抱いて入社してきた若者ほど短時間のうちに深い失望を味わうことになる。
 そもそもこの国に食文化などというものが一体どれほどあるのかと普段俺は考えている。極論すればものを食べることが文化である必要など別になくてもいいではないかとさえ思う。

 少なくとも、あちらこちらの飲食店で外食を繰り返しての食べ歩き自慢だとか、あそこのあれが旨い、いやいやこちらのこれのほうがもっと旨いなどという愚にもつかない食い物談義に口角泡を飛ばすだとか、そういったことが文化だとは思わない。
 「文化」というのは土地や地域に根ざしたものだと俺は考えている。ものを食べるのは何よりも生命活動を維持するための営みであって生活全般の一部である。「食文化」について掘り下げた知識を得ようとするならばまず最初に注目すべきはその土地の歴史や言語や宗教であり、これらに裏打ちされた生活様式だと思う。

 懐石料理が茶道の世界と密接な関係があることを一体どれだけの日本人が承知しているか、精進料理と禅宗の世界観、人間観、死生観どんな風に関係づけられているか、恐れ多くも文化について見識を深めたいのならばその程度の背景は知識として身につけておいても良かろう。行ったこともないどこかの国の話ではない。自分が生まれて育った国の文化についての知識なのだ。
 もっともそういった文化論が厨房屋という商売の実務において役に立つことは全くと言っていいほどない。同時に厨房屋という業界に身を置くことで何かしら文化の切れっ端が身に付くようなことも絶対にない。食文化に携わりたくて何かの仕事をしたいのであれば学校に残って大学院にでも進学し、研究者として過ごすのが一番無難だろうな。
 実務として食文化に関わるとすれば、第一次産業の従事者となるのが一つの選択肢だろう。あと、思いつくのは調理師になることだ。自分で料理を作ってみれば文化的な背景をうかがい知ることも出来るだろうが本人に余程の向学心がない限り目先の仕事に押しつぶされて終わりだろう。そもそも、文化としての献立を教示して継承を目的として運営されている職場など幾らもないし、そういう歴史と伝統に則った職場に調理師として就職するのは厨房屋に就職することに比べると絶望的なほどの狭き門である。就職したところで待っているのは辛い徒弟制度の日々で始めにやらされるのは何年にもわたる鍋洗いだ。

 要するに、食い物に限らず、文化に携わることで生活の糧を得る、なんていうのは学者や学芸員としての生活か、働かなくても収入のある金満家の暇つぶし、道楽でしか実現できないと考えるべきだ。少なくともあっちの店のこれが旨い、なんていう愚にもつかない馬鹿話を相手構わずひけらかすのは文化などではない。

 ただ、一応この業界で20数年を過ごしてきた者として言えることがあるとすれば、文化云々はさておいて食べることの好きな人はこの業界に必要な適性のうちの一つは身につけているとは言える。あくまで一つだ。数百、数千のうちの一つであって他の大半はお仕事の中で赤っ恥をかいたり小便をちびらせそうになったりしながら長い時間をかけて身につけていく事になる。これはどんなお仕事も一緒。

能書きの多いラーメン屋にはロクな奴がいない その1 [グルメ気取りのバカを晒す]

 しばらくぶりにラーメン屋の仕事を手がけてみた。 

 店主は職歴の判然としない男だが、相当過剰な自意識の持ち主であるらしいことは辟易するほど分かった。
私は基本的に他人の人生に興味はない。お仕事で知り合う人間関係とはつまり利害関係であって、お仕事とは突き詰めれば単位あたりの時間がどれだけ高価に売れるかの話だと考えている。

 このラーメン屋には冷凍冷蔵庫を一台買って頂いたのだが50数年にわたる人生模様の断片を脈絡もなく微にいり細にわたって聞かされ続けて大いに閉口した。お世話になっている方からのご紹介での商談だったから黙って聞いていたが本当にくだらない時間である。

 大体、現在世の中で呼吸している人類のうち99%はあと100年くらいすると地球上の誰の意識にも存在しない凡人だと私は考えている。当然、自分がそのうちの一人であることは間違いない。私は自分の一代記を出版すればベストセラー間違いなしというほど劇的な人生を歩み、何か物凄いことを成し遂げた人物では全くないので他人様の時間を使って自分の人生模様を際限もなく語る気はない。めいめいの人生時間に於ける経験談などいちいち語ったり聞いたりしていたのではきりがない。人の生活時間は有限であるからして凡人の人生模様を聞くことよりももっと有意義な使い道がいっぱいあるはずだ。
 そういうわけで相手構わず自分の人生模様を聞かせたがる奴などというのは全くもって非常識というかはた迷惑な存在だと常々考えている。

 件の人物は8年ほど以前、数年の間ラーメン屋を営んでいて大変好評だったのだそうだ。そんなに商売がうまくいっていたのなら一体何故閉店してしまったのかと皮肉混じりに尋ねてみたい気もしたが、またしても益体もない身の上話を延々と聞かされそうな気がしたのでそれは控えた。
 
 改めて書いておくが私には特別食べ歩きの趣味などはない。たまたまこういう稼業なので風変わりな食事にありついたり、自分のお金では食べられないような高価なメニューにタダ飯としてありつく機会はある。外食の機会も恐らく平均よりはやや多い方だと思う。20数年料理人さんを相手にお仕事をしてきたので門前の小僧的な知識の断片もそれなりにきっとある。但し所謂食通とか言う人種ではない。
 ラーメン店の主は彼が以前営んでいたお店の存在を私が知らなかったことに対して多少不満そうな表情を浮かべたが、幾ら私がこういう稼業であるからといって飲食店の一軒一軒までいちいちチェックなどしているわけはないじゃないか。アホか。

 彼は自分の作るラーメンがいかに考え抜かれたレシピに則っていていかに周到に仕込まれているかをこれまた際限もなく延々と語って聞かせ、いい加減私はまぶたが重くなってきた。

くだらん話だ。
退屈な話だ。

 ネット上に無数に存在する食べ歩き自慢のバカグルメのひけらかしにしてもそうだが、味などというものは百万言を費やしたところで表現しきれるものではないのだし、そもそも外食などというものは食べてなんぼの世界ではないのか。大体旨いまずいなどというのは結局のところ食べた人の主観であって客観的な評価など下しようもない。
 「能書き垂れる前に食わせてみろよ」と言いそうになるのを我慢しながら退屈な講釈を聞いているふりをするのも結構疲れるものだ。

 やっと本題にはいる。
この人物に限らず、ラーメン屋には能書きの多い奴が多い。(変な言い回しだな)
そして、ラーメンというのは格別歴史的な裏打ちのある食い物ではない。私なりの捉え方ではジャンクフードの一種であり、おやつに毛の生えたようなものだと思っている。だから無価値だとは言わない。ジャンクフードにはジャンクフードなりの存在意義は確かにある。私はラーメンが結構好きだし、実際よく食べてもいる。しかしラーメンの旨いまずいなどということについて口角泡を飛ばして議論する気は全然ない。
 千円札一枚でお釣りの来るような食い物にしかめつらしい論議などしてもしょうがないじゃないかといつも思う。それは実にくだらない時間の過ごし方ではあるまいか。
 だから、雑誌やテレビで取り上げられるラーメン屋の紹介番組みたいなものはくだらないことにムキになる、一種シャレの発露のようなものだとばかり思っていたのだ。

 ところがラーメン店の主の中にはこういうシャレの発露みたいなものを間に受けてなのか、やたらと大仰な能書きを垂れたがる奴が出現してくるのは笑える。

 やれどこそこ産の拘りの塩だとか、何とかイオンの水だとか、本当にくだらない些末なことをいちいち持ち出してはしかめつらしく語りたがる。はっきり言ってバカだ。

(長くなり過ぎそうのなのでこの項初は続く)
 


料理マンガのアホさ加減を小姑のようにあげつらう [グルメ気取りのバカを晒す]

 所詮マンガであり作り話でしかないのだからいいオヤジがムキになってあそこがおかしい、ここが違うなどと喚き散らすのも我ながらみっともないとは思うのだが、たまたまこのブログを拝見して頂いたお得意様より内容が固いのではないかとのご意見もあったので少し砕けた内容のエントリーを試みる次第。

 数少ない読者様のご意見は尊重しなければ。

 料理マンガは私が考えているよりも結構多そうだが、お仕事上で幾らかでも参考になるものは全くない。皆無、絶無と言って良い。
 ないけど取っつきの良さそうな題材ではあるしあれこれとつっこみどころ満載でもあるのでそのうち新しいカテゴリーでも作ってみようかなどと考えたりもしたり。

 今回、随分長いこと漫画ゴラクに連載されていた包丁無宿のことをちょっと取り上げる。

包丁無宿 36 (36)

包丁無宿 36 (36)

 正編だけでも全45巻になんなんとする驚異の長期連載だった。一話完結形式なので題材を思いつきさえすれば幾らでも続けられる。「流れ板」と呼ばれる板前さんの行状記である。
 これまで読んだことのある所謂料理漫画の中ではまあまあ読める方だ。

 私のような者にとって何が笑えると言って料理人さんが包丁で食材を切る場面が無条件に可笑しい。これまで25年、厨房の中を這いずり回って無数の料理人さんと接してきたが切りものをするときにいちいち
「うりゃ」とか「そりゃ」なんて声を出す人は未だに一人も見たことがない。決まって無言である。

 大体の場合に於いてそれまで下働き(掃除と鍋洗い)をしていた坊やの次なるステップは包丁を持たされて野菜を切ることなんであるがそんな場面で「うりゃあ!」とか「そりゃ、そりゃ、そおりゃあっ!」なんて叫びながらお仕事をしていたらまず間違いなく先輩にぶん殴られて鍋洗いに逆戻りだよw


ラーメン店の凋落(1) [グルメ気取りのバカを晒す]

 ラーメン店が曲がり角である。特に多店舗チェーン店が厳しそうだ。これは地域性も絡む話なので必ずしも全国一律に敷衍された現象とは言えないかもしれないが私は私の知り得る範囲で起こっていることしか書けないので該当しない地域もあることはご了解願いたい。

 曲がり角である、と最初に書いてしまったが、元々あるべき規模に収斂しつつあると言ったほうが巨視的な視点からは正しいのかもしれない。必要以上に大きくなりすぎたと考えたほうが正しそうだ。そして、この商売をそれなりに続けてきた者としては現在のラーメン店経営の問題点やどういう連中がこの業種をダメにしてしまったのかが実によくわかるのだ。

 結論を先に書いてしまおう。ラーメン店をダメにした連中とは以下の3種類に大別される。
(1)所謂マスコミ
(2)食通気取りのバカども
(3)定見のない厨房屋

 まず、現在のラーメン店が営業に苦戦する理由を検証してみたい。理由ははっきりしていて過剰な設備投資だ。投下資本の回収に時間がかかりすぎる。
 そもそも、過去をうんと遡れば飲食店としてのラーメン店は最も手軽に始められる業態だった。豪華な内装工事はなく、複雑な調理施設も持たず、高価な食器も要らないのがラーメン店であって、寿司店と並んで厨房設備設計の入門編でもあった。私はそうだったが図面書きとして駆け出しの頃はラーメンや立ち食いそばは確かに手がけた。

 厨房設備設計プランとしては100万円あれば始められるのがラーメン店だったのだ。家庭用の冷凍冷蔵庫が一台、スープ用の骨を入れるフリーザー一台、4つくらいの鋳物コンロ、2台くらいのシンクとワークテーブル収納用のキャビネット、残り予算で寸胴鍋や中華鍋などの調理道具一式を買い込んで完了だ。
 ところがある時期から、ラーメン店の厨房設備と言えばえらく銭のかかるものになってしまった。麺をゆでるのも餃子を焼くのも専用機、食器洗浄機の設置は当たり前、業務用の冷凍冷蔵庫が鎮座して、ついでにコールドテーブル、いつぞやのエントリーにも書いたがチップアイスディスペンサーがホールに備わる。挙げ句の果てにはチャーシュー(本来的にあれはチャーシューではないがここでは詳述しない。別の機会に書く)を切るためにハムスライサーまで置く店舗が現れた。

 新規オープンの店舗として私が手がけた例を一つ思い出すと、5年前くらいに施工した店でレイアウトプランを詰めた結果の設備機器総計額は納入価にして何と300万円近くにもなってしまった。個人店舗だがこれでもオーナーが使いたい機材のほぼミニマムである。多店舗チェーン展開している場合、本部での設計は更に重い設備になるのでもっと高価だ。

 厨房機材だけでも投資額は約20年の間に何と3倍にも跳ね上がっている。それでラーメンの実売価格が3倍になっているのかといえばそうではないし、業務用の麺の消費量が3倍になったわけでもない。

 現状のラーメン店が軒並みペイできる単価とは、多少の誇張を交えて言えばラーメン一杯が2000円くらいかもしれない。客にとってはとうてい受け入れられる金額ではないに違いないがそれくらい無節操な過剰設備が経営を圧迫していることを自覚できている経営者は一体どれくらい居るのだろうか?(この項続く)
 
 

 


半可通な言葉遣いを嗤う(ネタって何だよ?) [グルメ気取りのバカを晒す]

 ネタについて書く。ネタという言葉から何を連想されるだろうか?ネタにマジレス?
下ネタ?他にも色々あるが、概ね「材料」という意味合いで使われていることが多いようだ。

 身近な例で言えば「寿司ネタ」という言葉がある。寿司にも色々あるわけだがここではにぎり寿司にのっかっている具材を指す。
 私はここでまたしても小うるさい小言爺になろう。

別のエントリーでも書いたが
http://blog.so-net.ne.jp/tuttle/2006-11-26

 あれは元々「たね」と呼ぶのが正しい。ネタというのは寿司職人の符丁であって、本来、素人が使うべき言葉ではない。

 おにぎりの中に入っている梅干しやおかかは「たね」と呼ぶくせににぎり寿司の上に乗っている具材には職人符丁を用いるのはなんかヘンではないか?

 寿司屋で見かけるイヤな光景について一言言いたい。
カウンターに腰掛け、たねの並んだ冷蔵ケース(業界用語ではネタケースと呼ぶ)を一渡り見回して「今日は何かいいネタが入ってるの?」とか「どれがおいしいの?」などと訳知り顔で職人に尋ねる奴。こういうのは人間の基本が出来ていない欠陥人格者であり、およそ非礼なことこの上ない。他人の職業に対する幾らかのリスペクトを持つ人からは絶対に出てこないはずのせりふである。
 相手は徒弟制度のもとで散々苦労して修練を積んだ職人である。常識的に考えてお客様にお勧めできないような食材(商品)を目前に陳列するわけがないではないか!傲慢とか失礼とか侮蔑的とかいう言葉はこういうバカのためにある。


寿司を箸でつまむバカ(2) [グルメ気取りのバカを晒す]

前回のエントリー
http://blog.so-net.ne.jp/tuttle/2006-11-26 の続き

 何を今更と思われる方々は多いだろうが、もしかしたらこのブログを眺めているかもしれないにわか食通気取りのために改めてすし飯について少々書いておく。

 一般的に、にぎり寿司のご飯の部分は約25gの重量で、8個食べるとちょっと大きめのご飯茶碗に軽く一杯分くらいの分量である。
 このご飯の部分は職人たちの符丁としてシャリ玉と呼ばれることが多く、以下このように書く。
 シャリ玉は口の中に放り込んで噛むとご飯粒がすぐにばらけるような加減で握られている。このため、外周部分は締まってはいるが中心部はふっくらした状態をとどめるという相反する状態を一回の握りで作り出す極めて微妙な手さばきを駆使する。但し、お持ち帰りの折り詰め用とか、出前用には運搬途中の振動でばらけないようにやや堅めに握る。
 
 整理しよう。寿司職人が握りに技術を身につけるための修練は
(1)飯台(酢飯の入った桶)から想定した重量のシャリを掴み取る感覚を固定化させる。
(2)上記の微妙な握り加減のコントロールを体得する。
ことにかなりのエネルギーを費やす。

 もう一つ、食材としての米を考えると、にぎり寿司に使う米には多少の古米を混ぜることが多い。全部新米を使って酢飯を炊くとにぎり寿司用としては粘りが大きくなりすぎて、食べるときに口の中でシャリ玉がうまくほぐれないからだ。

 つまり、職人さんの握る寿司というのは僅かな力加減で形が崩れるか崩れないか、ぎりぎりの状態を作り出した結果である。箸でつまんでも崩れないような握り加減ということは、食べたときに口の中でシャリ玉がばらりと崩れる状態に出来ないのである。

 考えてみて頂きたい、何かをつまみ上げるときに直接指でつまむか、箸でつまむかの一体どちらが微妙なコントロールが効くだろう?

 寿司を箸でつまむという仕草は、何かを手掴みで食べるのは下品だという思いこみから出てきているのだろうと私は考えているのだが、それならそういうバカどもはおにぎりを箸でつまむのだろうか?

 カテゴライズでいうならば、和食にあって品格のある箸使いを求められるのは懐石料理であり、精進料理である。寿司はあくまで「庶民の贅沢」であり、歴史的出自から行けばおにぎりの発展したものである。

 にぎり寿司の原点は江戸前寿司にあり、更にそのもとにはおにぎりがある。江戸の街には火事が多く、火消しが済んだ後にはしばしば炊き出しが行われた。このとき、器や箸を使わなくても現場ですぐに食べられるようにとご飯を丸めたものの上に味噌や漬け物をのせたりしたのが始まりである。上にのせるものは総称して「たね」と呼ばれた。上にのせるよりも丸めたご飯の真ん中にある方が食べやすかったからで、ご飯玉の中心に漬け物や味噌がある状態は、例えば桃や柿の断面で中心部に種のある状態に似ていたのでそう呼ばれた。更に、炊き出して作ったこのご飯が運搬中に崩れないようにと海苔でくるむことを憶える。房総沖は海苔の産地であり調達は簡単で、このようにすると形は崩れず、運搬中に隣のご飯とくっつくこともなく便利で、このやり方は定着した。これがおにぎりである。
 その一方で東京湾は当時の一大漁場であり、魚介類は実に豊富であり多種多様な水揚げもあったので、これらを「たね」として使う工夫も凝らされた。こちらは従来通り、ご飯の上にたねを乗せる形で発展していく。
 その出自からいって、にぎり寿司ははじめ、行商の形で販売された。あらかじめ味付けされひと口大に切られ「たね」が桶の一方に入れられ、もう一つの桶にはたいたご飯が入れられる。この二つの桶を天秤棒にかけて担いだ行商人が歩き回り、どこかで店開きをしては集まってくる人たちを相手にご飯を握ったものの上に味付けされたたねを乗せて手渡しで売っていたのが江戸前寿司であり、にぎり寿司の原初の形である。

いわば、にぎり寿司にについての歴史概略だがここに箸も小皿の醤油も出てこない点は注目して良い。
 
 手掴みでものを食べるのは下品なので箸を使えばそれで自分はお上品な所作をこなしているのだと勘違いする大馬鹿者には全く持って苦笑を禁じ得ない。お上品な箸使いをひけらかしたいんであれば懐石料理を食べに行きたまえ。(続く)


寿司を箸でつまむバカ(1) [グルメ気取りのバカを晒す]

 テイクアウトや回転寿司の普及もあって寿司はすっかり大衆的な食事になった。
もっとも江戸時代にまで遡ればにぎり寿司は元々が大衆的な食べ物であり、トロをいっかん握ってもらってウン万円などという店の出現が既にある枠を外れているとも言えるので、ある意味原点回帰とも受け取れる。

 何でもそうだが物事は大衆化すると元来の流儀は破壊されてデタラメな流儀が横行する。そしてデタラメはスタンダードとして厚かましく定着するのである。

 それにしても握った寿司を箸でつまむバカの横行ぶりが凄い。これが寿司の食べ方のスタンダードとなった感がある。
 冒頭、書いておこう。寿司を箸でつまむなどというのはにぎり寿司の食べ方もろくにわかっていないバカの行いだ。こういうバカが寿司のうまいまずいなどを語るなどとは全く持って片腹痛いのである。一時、カウンターに立つ職人はこういうアホな所作を陰で嘆いていたものだが今ではすっかり諦めて愚痴らなくなってしまった。ぼやくことさえ空しくなってしまったということだ。
 あれは手で掴んで食べるものだ。指でつまむものだ。一体何のためにおしぼりが供出されるのか考えたことはないのだろうか。あれは埃で薄汚れた顔を拭き拭きするためのものではない。

 見ていて笑える光景がある。職人の符丁では紫と呼ばれる醤油が小皿に入っている。そして寿司を箸でつまむバカは、握った寿司のたね(ネタではないのか、という疑問を持ったあなたは既にバカの仲間入りである。これは別の機会に書く)ではなく、ご飯の方を醤油につけて食っている。こういうバカにはにぎり寿司の原点である江戸前寿司が一生理解できないだろう。

 バカにはもう一つのパターンがある。握った寿司を箸でひっくり返して持ち上げ、たねの方を醤油につけて食べようとする。

 このときしばしば、愉快な光景を目撃する。
その1:ご飯の部分を醤油に浸すと醤油がしみてご飯粒がグズグズに崩れる。
その2:たねを下にするために握った寿司を箸でひっくり返そうとして種が横にどてっと落ちる。
その3:周到な注意の元、うまく寿司をひっくり返してたねを醤油につけ、箸で挟んで持ち上げて口元に運ぼうとする途中で種がはがれ落ちて落下する。

 彼らはこういう場面で決まって自分のバカさ加減を棚に上げて「握りかたが悪い」と不平をたれる。職人に「食べづらいからもっと固く握ってください!」とイチャモンをつけていたアホな母さんの姿はきりがないくらい沢山思い出せる。

 こんな食べ方をしてご飯をばらけさせたり、たねを落っことしたりするアホどもは、そもそもすし飯というのがどういうものなのかもロクにわかっていないのである。わかっていないからこういう文句が出る。(以下続く)


半可通な言葉遣いを嗤う(「お愛想」って何だね?) [グルメ気取りのバカを晒す]

 「お客様は神様です」とはかの三波春男先生の決め台詞である。提供する側の心がけとして誠に立派だが、客の側に「お金を払う俺は神様だぞ」とやられると喧嘩の虫が騒ぐ。 

 日本国ではサービス(servis)の概念が正しく理解されていないと私は考えていて、日頃は出来るだけ理にかなった振る舞いを心がけるようにはしているが、時たま、目に余るバカも見かけるので気が向いたら取り上げてみたいのですね。

 そこで第一回。飲食店で支払いを済ますときに「お愛想お願いします」と口走る人物。これは訳知り顔のバカである。こういうバカは笑いものにされて良い。

 そもそも支払いを済ませる行為を「お愛想」というのはお店の側の用語であって客の使うべき言葉ではない。こういう言葉を飲食店で使う客は大なり小なりお店の人からは『何を訳知り顔で言ってるんだよこのバカが』と内心嗤われていると思って良い。

 本人の自覚の有無に拘わらず、客の振る舞いというのは尊大で不愉快なことがある。しかしそういうイヤな客でもお金は支払っていってくれるし、商売としてはお金のために再度来店して頂きたい。だから来店時の最後である支払いの場面ではお客さんを笑顔で送り出しましょう、愛想笑いだけど、というのが「お愛想」という符丁の意味するところである。

 私自身も客として飲食店に入るときがあるが、席のどこかで「おーい、お愛想」と、客の声がする度に笑い出しそうになる。「このバカ、意味がわかっているのかよ」半可通の見本みたいな奴である。
 それでは飲食行為の精算を客は何と言うべきか。正しくは「お会計」である。
「お会計をお願いします」が正解。


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